子供の遊び歳時記

                 榎本 好宏


2013/09/30子供

  第四十六回
 怖かった火の玉     (最終回)

 子供のころは、誰にも怖いものがたくさんあった。その怖いものの印象は、不思議と大人になるまで残っている。私にもそんな怖いものがいくつかあった。世の母親達が、子供が言うことを聞かなかった時などに言う台詞(せりふ)に「お巡りさんが来るよ」があった。
 当時、といっても戦中のことだが、お巡りさんのいでたちとは、制服、制帽に長靴(ちょうか)を履き、左腰にサーベルを下げ、大方がカイゼル(ひげ)(ドイツの皇帝、ウィルヘルム二世が、左右両端をはね上げた八の字型の髭を生やしていたことによる)を生やしていた、その印象が私には強い。お巡りさんが街中を巡回する時、下げたサーベルをカチャッカチャッと鳴らせて来るから、私はすぐ物陰に隠れた。
 これも古い話だが、私の次弟の怖がる最たるものは防毒面だった。昭和十九年ごろになると、東京も米軍の空襲が日増しに多くなっていた。B29による爆弾だけでなく、空母から発ってくるグラマンやロッキードなどの艦載機が、あちこちに焼夷弾(しょういだん)(建物を焼き払う弾)を落とし始めた。私の家から二軒先までこの焼夷弾で焼けたのが、我が家の疎開のきっかけになった。
 このころ出回ったのが、毒ガス攻撃の噂だった。そのためにどこの家にも防毒面は必備品になった。我が家でも、子供用が三つと、母親用の計四面が備えられた。顔一面を密着するように覆い、鼻の辺りから象の鼻のような管が伸びた、何とも異様な代物である。
 この防毒面も、疎開の荷物に入れて群馬に運ばれた。東京と違って群馬、それも農村地帯だから、空爆の回数は少なかった。そんなところから、次弟の極端に怖がる防毒面を出して、覆っては弟を脅した。見るに見かねたのだろう、母は終戦と同時にこのマスクを焚き火にくべて燃やしてしまった。
 疎開して間もなくだったから、昭和二十年の春先だったろうか、ある日、この弟が居なくなった。夜の八時、九時になっても帰って来ない。初めは、越してきたばかりだから、道に迷ったのだろう、と母も思っていた。しかし学齢直前のまだ七歳、母の不安は次第に募ってきていた。
 それにも訳があった。私の父の兄、つまり伯父は、八歳の時に居所が分からず行方不明になった。以後、父が長男となり家を継ぐが、祖母の言い草は「神隠しに遭った」だった。昔から子供が行方知れずになると、その原因は、天狗か山の神のしわざと言われてきて、祖母もそう思っていたのだろう。
 心配していた弟は十時過ぎに帰って来た。帰って来たというより、見知らぬ人に送られてきた。越してきたばかりで、住所をそらんじていない弟の言葉をつなぎ合わせて辿り着いたのである。送り主は、家から一里ほど離れた隣村の方だった。
 自転車の後ろの荷台に乗せられた弟は、喜びの余り(かかと)を車輪に入れたため、踵がパックリ口を開け、大人になるまで傷跡(きずあと)として残った。その弟いわく、「神さまが、あっちへ行け」と言ったから歩いていたという。傍らで聞いていた私は、「神さま」と言った弟の恐怖感を、その後もずっと持ち続けることになる。
 住んでいた土地柄か、この手の神がかった話は周りにいくらでもあった。戦中、戦後の時代だから、もちろんコンビニはおろか、外灯一つないゆえ、闇が子供心にも怖かった。その恐怖心をそそる話も、まことしやかに語り継がれていた。
 中でも怖かったのが人魂だったかも知れない。人が死ぬ時は、その家の屋根から人魂、土地の言葉で言えば火の玉が飛んで出るというのである。同じことは、屋根に止まった烏が三声続けて鳴くと、その家から死者が出るとも言われていた。昔から「烏鳴き」なる俗説があって、烏の鳴き声で吉凶を占ってきたから、三鳴きもこの説に添っての言い方なのだろう。
 火の玉も烏の三鳴きも、人が死んだ後の事柄として、「そう言えば」と前置きがあって火の玉や三鳴きが語られるだけで、予言の事実は一度も聞いたことがない。
 この迷信を打ち消す科学的な話も伝わっていて、私などは、こちらに加担していたように思う。例えば、火の玉には、二つの科学的説が語られていた。
 その一つが燐火(りんか)説かも知れない。私の手許にある『江戸文学俗信辞典』(東京堂出版)にも、「人魂は青白く少し赤みを帯び、尾を長くひく燐火といわれる」とある。これは雨の降る夜や闇夜などの折、墓地や山野などで燃えて浮遊する火ということになっている。この燐については、別項の「夜な夜な墓で度胸試し」をご覧いただきたい。
 この燐火を鳥がくわえて飛ぶのが火の玉で、その鳥とは烏である、というのが、私の周囲で語られていた説である。大人になって知ったことだが、この燐火を、鬼火とか狐火などとも呼ぶ。
 もう一つは流れ星説である。辺りに明りのまったくない時代だった上に、大気汚染もないから、星空は全天が見渡せた。もちろん流れ星も時に見えた。しかし、火の玉を流れ星とするには、大きさも、飛ぶ角度も違うので同調する者は少なかったが、子供心ながら、こちらには夢があると思っていた。
 のちにかかわる俳句作品の中の、

  星一つ命燃えつゝ流れけり    高浜 虚子
  死がちかし星をくぐりて星流る  山口 誓子

などを見ると、子供のころ思った夢がどこか重なる。
 流れ星は秋に多く見られるところから、秋の季語になっているが、この中に夜這(よばい)(ぼし)なる呼び名もある。『枕草子』の中にも、「星はよはひほし、すこしをかし」と出てくるのがそれである。夜這いなる行為は、土地の青年の間にあったから、よからぬことを想像しがちだが、語源は「呼ばう」だから、感動のあまり、つい星に声を掛けてしまう、というのだ。こんな夜空は、私の住む今の横浜には、まったくといってない。



(c)yoshihiro enomoto



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  榎本好宏(えのもとよしひろ)

俳人。昭和12年東京生。昭和45年、「杉」創刊に参画、森澄雄に師事、同49年より18年余編集長を歴任。現在「件」同人、「會津」雑詠欄選者、読売新聞地方版選者。
句集に『寄竹』『素声』『会景』『祭詩』(俳人協会賞)『知覧』など、著書に『森澄雄とともに』『季語 語源成り立ち辞典』『季語の来歴』『江戸期の俳人たち』『六歳の見た戦争』『風のなまえ』など。
俳人協会、日本文藝家協会、日本エッセイスト・クラブ、日本地名研究所各会員。
榎本好宏


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