『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/07/31
子供

  第四十回
 御輿(みこし)とアイス・キャンディー

 吾が一家ともども、群馬の片田舎に疎開していた伯父一家六人は、昭和二十四年、粗末ながらも、東京・神田の小川町に、住居を兼ねた事務所を建て帰って行った。戦争直後の紙不足は、出版業を営む伯父には痛手だったが、その紙の入手に見通しが付いたからの帰京だった。
 伯父の住んでいた家は、吾が家が借りていた家より広いので、早速そこに引っ越した。私の町は人口が当時七千人ほどあり、町の中心の一丁目から七丁目は商店街でアスファルト舗装されていて、他は全町ほとんどが農家だった。その農家の子から見れば、町場はうらやましい限りだから「お町」と呼んでいた。私ももちろんそう呼んだ。
 各集落でも祭りは行われたが、私達あこがれの「お町」の祭りは勇壮で、何基もの御輿(みこし)が出て、時々御輿同士がぶつかった。時には酒屋の大店に押しかけ、「酒出せ、酒出せ」とわめき、酒が出ないと、店先の柱に御輿をぶつけて壊したりもした。
  御輿は字義通り神の乗るものだから、高いところから見下ろしてはいけないことに古くからなっているが、仮に二階から見下ろす家があろうものなら、酒屋同様に、御輿をぶつけて柱が折られる。
  子供の御輿もこれを真似てのことなのだろう、大通りに二軒あるアイス・キャンディー屋の前で「キャンディーくれ、キャンディーくれ」と御輿を揉む。主は心得たように、大笊(おおざる)に山盛りにして、店先の床几(しょうぎ)の上に置いてくれる。
 こうした町場での一部始終を脇から見ていた私にとって、お町の子として、これら祭りに参加できる喜びであった。そしてもう一つ、子供心にアイス・キャンディー屋の子に生まれたかったと考えていた。
 そのアイス・キャンディーは当時いくらしたのだろう。十銭とか十五銭のお札を使った思い出は疎開前の東京時代までで、お祭りなどの折、母からもらう小遣いは一円札二枚だったり五枚だったりした覚えがあるから、その程度だったのだろうか。そんなころ、新十円札も出ていた。このお札の図柄は文字に見え、それを右から読むと「米国」とも読め、一時、進駐軍へのはからいだろう、と物議をかもしたことがある。
 翌二十五年、私は中学生になったが、この年の六月に朝鮮戦争が始まっている。その中学たるや、新制中学の発足を機に、数年前に(いも)畑を掘り起こして造った学校だから、雨が降ると庭中が蚯蚓(みみず)だらけになる。しかも、中学校前に幅三十メートルほど芝生が長く続いていた。滑走路である。
 この芝の先が、旧中島飛行機(現、富士重工)の跡地で、終戦とともに進駐軍の基地となった。ふだんは使われず、女の子達の四つ葉のクローバー取りの場でもあったこの滑走路に、朝鮮戦争が始まった途端に、時折小型飛行機が舞い下りるようになった。
 つれて、日本人とまったく同じ顔をした韓国兵が、軍服姿で町中を歩く様子も見られるようになった。そしてこんな噂も立ち始めた。農家の畑から大量の唐辛子を持ち去られるというのである。
 朝鮮戦争の一進一退が連日伝わる中、この米軍基地内でバザールが開かれることになり、町民がこぞって出掛けた。私の母は洋裁を業としていたから、今日本で流行の通販のスタイルブックを大量に買った。私は大型のマガジン・ラックと、漫画のミッキーマウスなどを買った。
 中でも人気があったのが、米軍用の天幕や寝袋などで、当時はカーキ色と言わずに国防と呼んだ色だった。日本のものより身丈の長い寝袋が、どうしてこんなにも多いのだろうと、子供心にも思った。朝鮮戦争が終わったのは、三年後の昭和二十八年だが、そのころ誰言うともなく伝わってきたのは、かの大量の寝袋は、朝鮮での米兵の死体の運搬に使われたものだった。
 中学に入ると、やはり新卒の女の英語教師に習った。親しくなった友人が、「先生の給料いくら?」と聞くと、迷うことなく先生いわく「三千円」と。私は忙然と、アイス・キャンディーが何本買えるかな、と思っていた。



(c)yoshihiro enomoto



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