『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/08/20
子供

  第四十二回
 雲雀の声、美空ひばりに重ねて

 雀捕りの名人でもあった弟はまた、雲雀(ひばり)捕りにもたけていた。ただこの二つの違いはと言えば、雀の方は食べるためだけの猟だったが、雲雀の方は、食べるどころか、文字通り、猫かわいがりの様相であった。ただ雲雀は雀と違って捕るのも飼うのも至難の技を要した。
 これは歳時記などにも書いてあることだが、三、四月ごろになると大空でさえずり始める。別名の告天子(こうてんし)とはよく言ったものである。この雲雀、四月から七月ころに巣作りを始める。大方は野原や河原の草の中に、格好よい(わん)形の巣を作り、(ひな)を育てる。
 ただこの雲雀、どんな名人でも飛んでいるものは捕れない。ではどうするかだが、雲雀捕りは、天から下りて巣に戻ったところを、つかまえることにしている。しかし雲雀も利口もので、下りた場所に巣は決してないから、子供も下りた辺りに目を凝らす。すると雲雀は、下りたところから巣まで地面を一目散に走る。
 これを見届けるのにふさわしいのが、そろそろ麦秋の時節を迎える麦畑だった。畝と畝の間に長い空間があって、遠くまで見通せるからである。巣は案外簡単に見付かった。
 野原や河原の場合は、下りたと覚しき辺りまで数人で近づき、一斉に大声を張り上げる。すると雲雀は、直接巣から飛びたつので、それと分かる。
 もう、こっちの物である。この時季はたいがい(わん)形の巣の上に、卵か雛が鎮座している。卵は三、四個はある。雛の方は茶色の生毛に覆われている。子供達は、卵なら何日後に、雛なら何日後に捕りにくればいいかを知っていた。
 早速、雛を育てる巣づくりに取りかかる。当時は段ボールなどない時代だから、箱と言えば、林檎(りんご)蜜柑(みかん)用の木箱である。林檎の木箱などは、横にして積み重ね、中学生のころまで私の本棚となった。
 雀や四十雀(しじゅうから)などと違って、雲雀の場合は飛び上がる習性があるので、林檎箱を縦に使い、天井に当たる部分には、魚捕りに使う糸を編んで作った網を張った。飛び上がるたびに天板にぶつけるので、頭が禿()げて、これが命取りになることを、子供は皆承知していた。
 (えさ)は雀と同じように地蜘蛛(じぐも)と決まっていた。私の子供のころは土蜘蛛と呼んでいたかも知れない。木の根方から地中に灰色の袋状の巣を延ばし、その中に棲む。地上から巣を引っ張るとすぐ切れるので、周りの土を手で掘って、そっと引き抜く。底にいるその蜘蛛を、爪で千切って食べさせるのだが、この餌だけはどの小鳥も喜んで食べる。
 捕った当初は、日夜丹念にめんどうを見るが、やがてそれもおろそかになる。そろそろ母親の叱声(しっせい)、「もう逃がしなさい」が出るころである。
 これは大人の、それも好事家(こうずか)の間にはやった遊びだが、「揚げ雲雀・放し雲雀」なるものがあったと文献にはある。飼い慣らした雲雀を野外で放ち、そのさえずりを楽しみながら、再び篭に戻るまでの声と滞空時間を競う遊びだから、随分優雅なことである。
 美声だけでなく、味の方もなかなかだったから、鶴や雁より珍重され、将軍家では鷹匠(たかじょう)に捕らせて宮中に奉り、諸侯にも賜った、という話が、江戸時代の『本朝食鑑』にも出てくる。
 その折、鳴き声があまり良いので、高さ数十尺の竹篭の上に長い網を張って飼い、馴れると日がな一日美しい声で鳴いた――ともあるから、私どもの少年時代とは随分と違う。
 「ひばり」の語源にも触れておかなくてはなるまい。貝原益軒は「日晴」説を言い、「晴れたる時、高くのぼるなり」と書く。大方の意見が益軒と対立する新井白石さえも、この説を支持する。
 私と同年齢で、戦後美声を誇った美空ひばりの「ひばり」も、私にはどこか雲雀の声に重なる。




(c)yoshihiro enomoto



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