『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/09/20子供

  第四十五回
 蕗谷虹児と「花嫁人形」

 子供心に思ったものである。女の子はなぜ手持ちのものを周囲に見せたがらないのだろうと。それらの多くが、当時流行の蕗谷(ふきや)虹児(こうじ)を始め、竹久夢二、加藤まさを、中原淳一らの絵だった。それらの絵は、そのころの独身女性向けの雑誌「令女界」に載ったもので、なかなか手に入る代物ではなかったようだ。
 私には、小さいころから「よっちゃん」と呼んでくれる一歳年上の従姉妹(いとこ)がいた。その従姉妹でさえもが、「内証よ」と言って見せてくれたのが、かの蕗谷虹児の絵だった。この従姉妹の父、即ち私の伯父は、戦前から、東京・神田の小川町で出版業を営んでいた。
 空襲で焼けた後も、家族を疎開させ、自らは東京に残って仕事をしていた。紙不足の終戦直後も、どうやり繰りしたのか、『広辞苑』ほどの厚さの『南方年鑑』とか、『お菓子の事典』などを出していた。妹でもある母の言い分は、「兄さんって、要領いいからね」であった。
 その伯父が時々疎開の家族の許に帰る折は、(おい)である私にまで、『小公子』『ガリヴァー旅行記』『少年探偵団』などといった子供向けの本を、必ず携えて、我が家にも来てくれていた。従姉妹がご自慢の蕗谷虹児がらみのものも、伯父の手筈のものだったのだろう。
 時代が時代だったから、蕗谷虹児の生い立ちについても触れておかねばならない。
 虹児は明治三十一年(一八九八)に、新潟に生まれている。十二歳の時母が亡くなり、一家は離散、虹児の放浪の生活が始まる。二十一歳で三度目の上京を果たし、ここで竹久夢二と会い、その紹介で「少女画報」の口絵を描くようになり、吉屋信子の小説の挿画を描き、虹児の名が世に出ることになる。
 更に虹児の名を不動のものにしたのが、童謡「花嫁人形」の作詞だろう。この歌の誕生は大正十二年(一九二三)というから、九十年も経つ。この年の「令女界」に発表されたものである。よくぞ歌い継がれたものだが、歌詞は、そう長いものでないので、ここに五節までを抽いてみる。

金襴(きんらん)緞子(どんす)の 帯しめながら
 花嫁(はなよめ)御寮(ごりょう)は なぜ泣くのだろ
文金(ぶんきん)島田(しまだ)に 髪結(かみゆ)いながら
 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
③あねさんごっこの 花嫁人形は
 赤い鹿()()の 振袖(ふりそで)着てる
④泣けば鹿の子の たもとがきれる
 涙で鹿の子の 赤い(べに)にじむ
⑤泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
 赤い鹿の子の 千代紙(ちよがみ)衣装(いしょう)

 この詩の誕生には秘話が残っている。先の「令女界」では、西条八十に詩の創作を依頼していたが締切日が過ぎても届かず、編集者の水谷まさる(詩人で童話作家)は弱り果てていた。そこへ、ひょっこり虹児が挿絵を届けに現れた。福の神である。水谷は、「何とかこの頁を埋めて下さい」と懇願、急きょ生まれたのが、虹児作の詩「花嫁人形」だった。
 曲はと言えば、三年後に杉山長谷夫が付けている。杉山は、「今宵出船か お名残惜しや」で始まる「出船」(勝田香月作詞)の作曲でも知られる。この甘美なメロディーが、関東大震災後の暗い世相にかなっていたのか、歌は直ちに全国に広まっていった。
 「花嫁人形」の歌碑は、虹児が少年期を送った新潟市にあり、虹児の故郷、新発田市では、毎年、「花嫁人形」全国合唱コンクールが行われている。
 私と同年配の友人が、二年前に町田市で開かれた「蕗谷虹児展」の折のカタログを貸してくれた。その中に、虹児の三男の蕗谷龍夫の一文がある。先の新潟市の歌碑には、四節目の「泣けば鹿の子の たもとがきれる」の「きれる」が「濡れる」になっているという。この歌、結婚披露宴の折の余興によく歌われる。めでたい結婚式での「きれる」は忌み言葉だから、虹児本人も承知の上で、「濡れる」と碑文に書いたのだという。虹児らしいはからいとも言えるだろう。

 





(c)yoshihiro enomoto



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