第100回 2012/2/21

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹



   独り句の推敲をして遅き日を    虚子
        昭和三十四年三月三十一日
        句仏十七回忌

 「句仏」は真宗大谷派管長の大谷句佛のこと。
 句佛は「ホトトギス」を経て、というか子規や虚子、碧梧桐の薫陶を受けて俳人としても大きな業績を残した。
 虚子や碧梧桐とはほぼ同年代であるが、この句佛ももう十七回忌の故人である。虚子のまわりにはもう同じ世代の俳人は数えるくらいしかいなくなった。
 
 掲句は『七百五十句』最後の句。虚子の辞世の句と言ってもよいだろう。その最期は四月八日であるから、もう書き残すことはなかったはずである。
 書き残す、とは「描き遺す」と言ったほうがいいかもしれない。虚子の八十五年の人生における俳句は、捨て去った句を入れれば十万句とも十五万句ともいわれている。その人生は俳句一筋のものであった。
 そこに走馬燈のように過ぎ去っていった俳人たちの数も膨大なものだ。
 古くは、子規、漱石をはじめ文壇で活躍した作家たち、俳人といっても政界、財界、司法界、学術の方面で活躍した人々。能や狂言、歌舞伎や音曲の方面の人たち。花柳界や実業界、宗教界、芸能の人たちから社会をはみ出た人たちまで数限りない。

  立春の光りまとひし仏かな   虚子
        昭和十八年二月十三日
        大谷句仏追悼。

 これは、句佛への弔句であるが、ともに春の日に逝くことになった。
 もっとも虚子の最期の日は春雷がはげしく鳴り響く鎌倉の夕刻であって、むろん虚子はそれを句にはしていない。
 筆者が二歳になったころ、虚子は掲句でもって二人の永い時間を反芻するように、近代から現代俳壇への覇者としての幕を閉じようとしている。

 余談だが、その虚子の初期からの弟子であった、文部大臣で学習院院長の安倍能成が、虚子の曾孫の筆者が学習院初等科に入学したとき、当時の院長としておおいに喜ばれたという。その逸話は後年になって知ったのだが、その感慨もまた私の俳句人生を送る大いなる力となった。
 その安倍院長から賜った言葉はたった一つの言葉として覚えている。
 「正直に生きなさい」と。




 
(c)Toshiki  bouzyou
坊城俊樹(ぼうじょう・としき)
昭和32年7月15日東京都生。蟹座・血液型O型。曾祖父高濱虚子。祖父年尾のもとで俳句をはじめる。学習院大学卒業。平成元年、損害保険会社企業営業をへて、俳句協会へと転身。前職場では隠れ俳人であったため、誰しも俳句ができることを信じなかった転職。
俳壇若手のオピニヨン・リーダーのひとりで平成15年より2年間『NHK俳壇』の選者を務めたことから、全国にファンが多い。
坊城家は平安時代から和歌における歌会の講師家。趣味はハワイ育ちの波乗り。
俳誌「花鳥」主宰、日本伝統俳句協会理事、ホトトギス同人、句集に『零』『あめふらし』(日本伝統俳句協会)著書に『切り捨て御免』(朝日新聞社)『丑三つの厨のバナナ曲るなり』(リヨン社)『空飛ぶ俳句教室』(飯塚書店)などがある。

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 2年間以上連載させて頂きました、本企画も今回が最終回となりました。
 ご愛読いただいた皆様方、誠にありがとうございました。
 また当連載に関わった方々、そして毎週欠かさずに原稿をお送りいただいた
坊城俊樹先生に改めて御礼申し上げます。

  飯塚書店 編集部