『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/05/30
子供

  第三十四回
 西瓜泥棒と瓜盗人

 塾や部活のない時代に育ったから、子供は学校以外は一日中外で遊べた。とくに野や畑に食べ物の多い夏から秋にかけては、子供の天国でもあった。ポケットに塩か味噌を、セロハンに包んで持って出れば口にする物はどこにもあった。
 最初に目指すのは青梅である。大人の親指の頭ほどになるころから食べ始める。大人が言うことには、青梅の種が軟らかいうちは、その種に青酸があるので食べるな、だった。ところが子供の中には、それも塩を付けて食べれば安心なる風評があり、この注意にも()じなかった。
  青梅の(しり)うつくしくそろひけり  室生 犀星
のころともなると子供の天下である。木に上っても食べたが、この時期怖いのが、群馬で「デンキゲンム」と呼んだ、一センチほどの毛虫である。この毛虫に内股(うちまた)でも刺されようものなら、三日ほど()れが引かず、時には熱も出る。青梅が熟して黄色味を帯びて、ぶよぶよしてくると一層うまくなり甘みも増す。もう塩も付けずほお張るだけである。
 一方の味噌は、田や川の畦に生えている野蒜(のびる)などを食べるために持ち歩いた。この根は少々辛いが、味噌をつけて食べるに限る。しかし、この野蒜、簡単に引き抜けそうだが、茎を束ねて引っ張ると、たいがいは千切れる。こんな時便利なのが、ポケットにいつも秘ませている小刀、肥後守(ひごのかみ)だった。この小刀を縦に刺して何度か引くと、からみ合っていた雑草の根が切れ、野蒜は簡単に抜けた。
 これを田川で洗って、根に味噌を付けて食べるのだ。私の父は、昭和十八年にアッツ島で戦死したが、その父が常日ごろ言っていたことは、「子供は田水を飲んでも腹をこわさないように育てろ」だったから、田川の水で洗って野蒜を食べるさまは、まさに父の遺言通りだったのかかも知れない。
 その野遊びも、夏休みに入ると毎日、それも一日中となる。いでたちは半ズボン以外は裸で素足、そして腰に手(ぬぐ)いを下げる。暑ければ、ズボンのベルトを外し、後ろに手拭いを縛り、前に垂らせば、立派な(ふんどし)になる。暑くなったり、遊びに飽きれば、このまま川に跳び込めばよい。こんな日常だから、上半身は一夏に七、八回皮がむけた。
 このころの畑は、どこも作物だらけだった。真っ先に食べ始まるのがトマト。あちこちの畑に赤くなり始める。今のようにハウス栽培でないから、この季を逃すわけにはいかない。もいでは手拭いに包み、水泳ぎをする川の隅に石で囲いを作り、ここに浸けて置いて冷やす。一緒に採った胡瓜(きゅうり)も放り込む。
 現代のトマトは、福島県の奥会津の伊南(いな)村(現在の南会津村)が原産と言われる「桃太郎」に代表されるように、果物感覚になってしまった。ところが当時のそれは、酸味が強く、しかも青嗅かった。
 当然のことながら、このトマト、毎日我が家の食(ぜん)に上った。ところが、途中から疎開に合流した祖母が一緒に住んでいて、このトマトが「嫌い!」と言ってそっぽを向いてしまう。困った母は、「おばあちゃんは、このトマト、食べ慣れていないのよ」とかばう。それでも祖母は、「このトマト、気違い茄子(なす)って言うのよ」とまで言う。当時は色が極端に赤いから、そう言うのだろうと子供心に得心していた。
 最近になって、この言葉が気になり調べ始めると、いろんなことが分かってきた。かの気違い茄子とは、猛毒を持つ朝鮮朝顔の異名であるというのだ。ナス科のこの植物、江戸時代から薬用として栽培され、ぜん息の治療などに使われていたという。かつて有吉佐和子のヒット作『華岡青洲(はなおかせいしゅう)』の中でも、麻酔薬としてこの朝鮮朝顔が使われていたことになっているが、量を間違えると発狂状態になるからの命名なのだ。
 ナス科のトマトは、記録によると明治時代になってから栽培されているので、明治十年代に生まれている祖母には、まさに珍奇な野菜だったに違いない。私の推測だが、当時ナス科の朝鮮朝顔が呼ばれた気違い茄子の蔑称(べっしょう)が、同じナス科のこのトマトにも使われていたのだろう、と思う。
 トマトと違って、()ることに少々罪悪感を覚えていたのが、瓜と西瓜かも知れない。耕作する方もそのことを承知していて、瓜は桑畑の桑と桑の間に(わら)を敷いて作っていたし、西瓜の方は家から見える畑か、さもなくば番小屋を置いていたから、子供では手が出しにくい。
 瓜は真桑瓜と、これを改良した梨瓜の二種類があった。真桑瓜の方は緑色のところに、横に何本かの太い(しま)が入っていた。俳句を始めてから知ったのが、秋の季語に「瓜坊(うりぼう)」がある。猪の子はまさに、この真桑瓜に似た縞が入っているからの命名。
 味の方はとなると、子供にとっては、この真桑瓜より梨瓜の方が断然うまいし、第一甘さが違う。となると、この梨瓜が黄色く熟すころを見計らって失敬する。盗った瓜は、西瓜と違い小さいから、手拭いで包んで持ち運べた。これも、くだんの川辺で冷やし、手刀で二つに割ってかぶりついた。
 一方の西瓜の方は、監視の目が厳しい上に大き過ぎるから盗れない。学校で自慢するやつはいるが、私達に西瓜泥棒はできなかった。そんなある日、農家の人が、西瓜泥棒の首実検に学校にやって来た。
 私どもの住んでいる町に、利根川が流れていた。対岸は埼玉県である。その川の中ほどに、子供達が「なかっちま」と呼ぶ州の状態の島がある。この島には私達も、本流の強い流れを泳ぎ切ったあと、必ず上陸した。木も草も生えていないだけでなく、砂と砂利だけの中州だから、地面は()けきっていて、長居のできる場所ではなかった。
 この島に作っていた西瓜が盗られたのだと言う。犯人と覚しき少年は、地面が熱いので、こともあろうに、西瓜の(つる)と葉の上を伝い歩きして西瓜を盗ったのだ。そのため西瓜は枯れた。そのことを学校に訴えに農家の人は来たのだが、誰も名乗らなかった。
 この稿のタイトルに「瓜盗人(ぬすびと)」を使ったが、大人になって何度か観た狂言「瓜盗人」の場面を思うたびに、子供のころ梨瓜を盗ったことが思われるからである。






(c)yoshihiro enomoto



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